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about a manner

ちょっと何言ってるかよくわかりません

ファッション批評における問題点のまとめ - 『ファッションは語りはじめた』より

ファッション批評

(1) 「情報共有」と「状況共有」

5月22日付の繊研新聞にジュンのユニークな労働環境に関する記事が掲載されていた。「情報共有」ではなく、「状況共有」を重要視されているそう。

断片的な、動かしがたい事実としての情報だけを知らされても、特に未経験者であれば、その優先度、緊急度を読み取り、更に具体的な手を打つことは相当困難だろう。状況を通じて当事者の息づかいが肌でわかれば、自ずとやるべきことは見えてくる。目から鱗のお話だった。

 

 

この<情報/状況>の区分は切り口としてとても柔軟でいい。使いやすい。

たとえば服オタクは服自体の「情報」に、ファッションピープルは服が置かれる「状況」に、一層の価値を置くと言えるだろう。

 

 

先日ふらっと寄った際に丸善で買った、アートディレクター・佐野研二郎さんの『思考のダイエット』という本に興味深いことが書いてあった。曰く、「低解像度のほうが本質的」なのだそうだ。

噛み砕くと、低解像度=視覚情報に圧倒的なウエイトが置かれおり、イメージを効率的に伝達できるという意味で本質的である、ということだろう。高解像度は背景知識が必要とされるので、文化教養的な傾向を帯びる。

 

7日でできる思考のダイエット (magazinehouse pocket)

7日でできる思考のダイエット (magazinehouse pocket)

 

 

 

 では、近眼的な服(の情報)オタクはファッションピープルじゃないのか?と言えばそんなことは全然なくて、時にイコールになる。むしろファッションは、最終的には高解像度をいかにローな「着こなし」に落とし込めるかというゲーム。

粗利益向上のために商社と結託してSPA化を遂げた大手セレクトショップでも、有力店にはそういうキラ星のようなスタッフの方が今でも普通にいらっしゃる。

 

 

個人的には服オタクを自称するなら、紡績方法やブランド(ファクトリー)の縫製の手クセといった、服の表面性を下支えしている要素まで語れるようであって欲しいなとか、そういう理解ができる人間になりたいなとか。

だって、こういう要素は絵画の世界ではごくごく普通に長年語り継がれていて、それが作者性の担保として機能しているのだから。そう考えているからこそ、自分である程度縫えるように努力している。

 

そんなことを考えていた夜明け頃、ふとファッション批評家の蘆田裕史氏のファッションの特殊性についての主張を思い出した。「ファッションは情報量が少ない・・・タブラ・ラサとはいかないけれども、いろいろな情報を付加できる」(『ファッションは語りはじめた』、16頁、フィルムアート社、2011年)。

 

 

 

 

人間の生の不条理と資本主義社会の不条理にちょっと疲れているから、静かな言語の世界に引き籠りたい。

今日は改めてファッション批評の問題点をまとめておく。それにこれに関しては過去のブログで書く書く詐欺しているのだった・・・。

 

 



 

 

 

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 (2) ファッション批評の問題点

ファッションは語りはじめた 現代日本のファッション批評

ファッションは語りはじめた 現代日本のファッション批評

 

 

 

西谷真理子編『ファッションは語りはじめた』は「ファッションに言葉を与える」という比較的ラフなかたちの批評誌。インタビュー、ブランド論、デザイナーの対談とバラエティーに富んでいる。強いて言うと、鬼門の<ファッション造形論>だけが欠けている。読みやすさと内容の濃度に関しても、収録されている一本一本のクオリティは並以上だと思う。

多くの論文は東浩紀の『動物化するポストモダン』における<データベース消費>論に依拠しているので、それを予め理解しておくことが必要。21世紀人文学の圧倒的勝者だった彼のロジックに依拠することは、当時ファッション批評に限らず、ひとつのトレンドであったのだ。

 

 

 

 

頭にふと過った蘆田氏の言葉は、同書冒頭の千葉雅也氏との対談「ファッション批評の可能性と条件をめぐって」内での発言である。

この対談は蘆田氏が抱いているファッション批評に関する問題群に、広範な表象文化を扱う千葉氏が応えてゆくという形式になっている。内容はファッション批評の困難さからはじまり、ファッション批評のこれまでの在り方と今後の模索。

 

先に私なりの感想を一応書いておくと、蘆田氏の疑問、現状を踏まえた将来的な戦略に対して強く同意している。

応答する千葉氏は、ファッションの外部者である故の奔放な着眼点が魅力的。だが、蘆田氏が求める「具体的に実践可能なファッションのための批評」には、やや強引な自説の展開および内容の転置/倒置による主旨のすり替えが目立つ。

蘆田氏が批評forファッション、千葉氏がファッション批評for批評という、立場の違いに由来しているのだが、「具体的に実践可能かどうか」はファッション批評のレゾンデートル、服を語る上での本質的な部分だと思っている。

 

 

さて、ようやくここで指摘されている問題を整理しておく。

 

 

<ファッション批評の困難さ>

(1) 「論じる単位が不明確」

これが困難の源泉である。服単体、プレゼンテーションの方法、スタイリング、受容論においては資本主義やマーケットのことも考慮にいれなくてはいけない。更に、服単体の評価軸も多様である。素材、縫製、デザインの善し悪し、総体としての服のイメージ性など。

本稿に書かれてはいないが「善し悪し」も実際ラディカルな問題で、服本来の着やすさ、物性、イメージ通りの立体化は一般的に共存できない。

 

 

これらが前提を共有することが難しく、それ故に議論することが一層困難になっている。解決策としては、両氏とも論じる際に、資料体(コーパス)を仮留めしていくという(煩雑な)手続きの必要性で合意している。実際、コーパスに限らず蘆田氏の丁寧な前置きはコレクションレビューにも顕著だ。

 

 

 

 

(1-1)<ファッションの特殊性>について

一応書き留めておくと、ここでは服自体の情報量は少ないがプレゼンテーションが豊富であるという性質が<ファッションの特殊性>と呼ばれている。が、これに関しては疑問に思っている。

 

ファッション批評に対する一つの態度の違いからやってくるものなのだが、完成された服の水面下には膨大な審美観(デザイン)、化学的知見(原料、紡績、織り・編み、染色、二次加工)、服飾文化の伝統(パターン、縫製技術)が息づいている。

これがひとつでも狂うと、大袈裟に言えば完成体に大きく影響して、全く違った服になってしまう。それ故、微細な差異がいつでも問題となっているのである(なんとなれば、同じ染色整理工場で同じ生地に同じ加工をしても、同じツラになることなんてほとんどないくらい。工業製品として考えられるとしばしば見落とされてしまうが、「服は再現性に極めて乏しい」のである)。

 

一般的に「価値のある服」と広く認識されているものに関しては、ミクロの世界において多岐にわたる情報が高解像度で眠っている。だから「服に情報が少ない」といきなり発言してしまうと誤解される恐れがある。あるいは「センスのないやつ」と断定される恐れが。冒涜されたと感じるその筋の人との対話の道が閉ざされてしまうのではないか。

 

 

 

 

内容に戻る。

(2) 「ファッション批評の場が存在しない」

更に不運なことに、ファッションを「批評する」行為自体も難しくなってしまっている。というのも、批評とは過去を引き継ぎつつ、現在に新しい光を投げかける行為である。しかし、既存のファッション批評は、社会学的なファッション論(not衣服論)と素朴な擬-作家主義が多い。ファッション批評を展開する前提、拠り所となる強固な場がまずない。

 

素朴な「擬-作家主義」の典型として、シャネルのモダニズム論とマルジェラのデコンストラクション論、後半部分では御三家神話が挙げられている。

たとえば「そもそもモダニズムとは何か?」には踏み込まず、外面的なアナロジーと書き手のエゴに毒された平凡なコンチェットが議論を表層的にしてしまっている(ここまでひどい言い方していないけど、そういうことだと)。

 

この絶望な状況に対する打開策として、蘆田氏は根性論を提示している(そこが個人的に最も共感している)。つまり、服に根付いた批評用語の確立と同時に、外部からの援用を行うことで、ファッション批評の前提を形作りかつ流布させていく戦略。そういう目でファッション批評誌『vanitas』を眺めると、また見え方も変わってくる。

 

 「他の批評の分野でもうやられてきたことをもう一回反復することについては、僕も悩んでいて、それがいいのか悪いのか、はっきりとは分からない。やるべきだとは思う一方、今それをやっても意味がないんじゃないかと、そこはもう本当に引き裂かれていてなんとも言いがたい。だから、じゃあもうしょうがないから両方やるしかないよねっていう」(27頁) 

 

 

 

 

 

<ファッション批評のこれまでと今後の展望>

国内のファッション批評において、鷲田清一氏の存在は絶対的で、彼は現象学、身体論、精神分析学、社会学(関係論、存在論)を統合、独自にアレンジしてファッションについて言及している。現象学自体の危うさに加え、時にパラドックスが見出されるその主張が、既に適合できないようなポストモダン事象も散見されている。

ポスト鷲田の可能性として、ファッションのデータベース論、それに付随してファッション独自の「タグ付け」、ヴァーチャルな身体としての衣服論が提示されている。

 

批評にはガイド的役割があり、ましてファッション批評そのものの認知がなかなか進んでいないという芳しくない現状もあるので、想定する読者に応じた書き方が重要になってくる。

ファッション批評を具体的なデザインの場に差し込むことで、ファッションとファッション批評を有機的に発展させることが両者にとって望ましいのではないか。そのためには、ファッションとして具体性を持つ批評の展開創造のフックとなるようなレトリックが必要。

 

 

 

 

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エリート社畜の名をほしいままにしている私の批評に対する関心は徐々に薄まってきていて、だからレトリックの重要性を理解しながらも、一層具体的な方向に舵を切って行きたいと思っている。

「既存の公理系に対抗する公理系」と言ってしまうと極めて言語的な、記号論的な問題に思われるが、実際はあくまで服、モノなのだ。モノに沈潜puissanceしている高度な情報を上手に咀嚼しつつ、レトリックを磨いていきたい。

デザイナーでもなく、パタンナーでもなく、エディターでもなく、研究者でもなく、一般消費者でもない私が敢えて書くささやかな意義と言えば、それくらいだろう。