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about a manner

ちょっと何言ってるかよくわかりません

ファッションの3つのリアリズムとテーラリングについて

ファッション造形

最近ロックがたりない

 

 



 

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1.  西洋のリアル観、美術におけるリアリズム

満員電車に飛び乗って日刊の業界紙を読んでいたある朝、小見出しに「リアル」という言葉が3回も使用されているのを見つけ、どうしようもなく不機嫌になった。このご時世にリアルを打ち出す姿勢にリアリティを感じない。第一、ファッションにリアルは存在しない、あるいはすべてがリアルである。なんて詭弁だ。

専門学生時代、「この襟の返り、なんか不自然だよね」とか「スタイリングにリアリティ感じないよね」などの不明瞭obscureな批判を聞く度、私は嘔吐しました。何が自然なんだ、何がリアルなんだ!ちゃんとルミネで買い物してるのか?夜中のドブ川に流すぞ、このかわいい子猫ちゃんめ!といつも思っていた。私は当時、西新宿のロカンタンと呼ばれ、思い出横町の居酒屋のおっちゃんに結構かわいがられていたのだ。

 

ファッションにおけるリアル、とカタカナ語を連発されると何について具体的に述べてようとしているのか判然としない。わざわざ言語によってファッションに注釈を加えるのなら、そして客観性を確保しようとするのなら、可能な限り曖昧さは取り除きたい。

実は西洋近代を理解する上で「リアル」という語彙は極めて重要である。リアルの絶えない希求の軌跡が近代だとさえ言える。ここではひとつの考察の軸を得るために伝統的な芸術ジャンルにおけるリアルの問題を一旦覗いてみようと思う。宗教美術を例に、リアルという言説が人為的に構築された過程の簡単な見取り図をまずつくってみよう。

 

 

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内容、形式において現実志向の芸術作品群一般を私たちは便宜上現実主義(リアリズム)と呼んでいる。以下に美術史上でも有名な三作品を引用する。内容、形式の両方の点から絵画の「リアリティ」が徐々に強まっていく流れが感覚的に理解されるだろう。

「受胎告知」を選択した理由は、天使がリアルを巡る問題を考察するのにとても有効な対象だと思われるからである。それは完全に神の世界に属するものでもなく、かといって人間の世界に属するものでもない。ふたつ世界を繋げるメディアである。それ自体が関係なのだ。二つの世界の関係の変化が天使の表現のされ方に如実に現れる。

14-15世紀の間に描かれた「受胎告知」を並べると、制作年が新しくなるにつれ以下の特徴が顕著に表れる。柔らかな色彩の使用とグラデーション、それが可能にするなめらかな自然光と輪郭線の表現。解剖学的に正確な身体比率。絵画で表現される風景は黄金という超越的な空間から現実的で自然の中へと移されてゆき、描かれた自然は人間のヴィジョンと限りなく似て、奥行きを持った空間として表現されている。マリアとガブリエルからは不安や厳粛さが薄れてゆき、飾り気のない様子で(natural)受胎の告知が行われるようになる。超越的な存在としての天使が、私たち人間に近づいてくる。

 

 

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 シモーネ・マルティーニ「受胎告知」(1333年頃)

 

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フラ・アンジェリコ「受胎告知」(1426年頃)

 

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レオナルド・ダヴィンチ「受胎告知」(1480年頃)

 

 

<real>が現実を意味するようになったのは実はシェイクスピアの『ハムレット』の初演と同年、1602年である(あの悲痛な実存的問いかけを思い出す)。<fact>やその統計である<data>が現在と同じ意味を持つようになったのは1630年代以降、というのは「魔族」界の一般常識。言語が人間の認識に先立つのならば、1601年以前には人間の世界に「現実」という概念は「存在しなかった」。世の中は単に「作られたもの」で溢れていただけだった、と言えば大げさに聞こえるだろうか(fact→factory,fictionなど)。

現在では、現実realという語が布置されているその座に、古代から長らくあった語彙が恐らく自然natural。近代美学の父、ヴィンケルマンの熱い古代ギリシア愛を思い出す。ヨーロッパの理想郷であり、文化の原点である古代ギリシアの「自然さ」(簡素で、力強く、調和、均衡)が最も優れているという評価を彼は下している。実際、殊に近代の、ヨーロッパ文学、美術に関しては、「自然に<見える>こと」を「現実的で<ある>こと」に巧妙に置き換えながら、或は無意識に同一視しながら、文化や社会を醸成していった。

 

再び絵画から。誰もが一度は目にした事があるだろうルイ14世肖像画。バレエを一大文化にまで育て上げた彼の脚に注目したい。

 

 

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 イアサント・リゴー「フランス王ルイ14世肖像画」(1701)

 


映画『王は踊る』(2000年)の1シーン

 

 

現実主義は二つの段階において非現実的であった。被写体としての人物は現実に存在する。そして被写体が自然に映るようにテクニックを駆使して描くが、その際に被写体に若干のデフォルメが加えられる。たとえば、ルイ14世肖像画のようにふくらはぎを大きく、硬く描いたり、典型的な誇張表現としては、男性の力強さを強調するために肩幅を広く、胸板を厚く描いたりする。女性らしさを強調するためにボンキュッボンにしたりする。画家による描写の段階におけるアンリアリティ。現存する人間が「古典的or当世風の理想的な美のフィルター」を通して、「自然な描法」で描かれる。16世紀以降の近代ヨーロッパが発展させた(再発掘した)自然主義「(できるだけ)自然(に見えるよう)な(人間の理想を体現した)作品を作ることを目指す」主義のことである。理想をわざわざ強調して表現しなければならない存在とは政治的な、文化的な強者である。農民や街路といった「リアルなもの」が集中的に絵画主題に選ばれるようになったのは「大衆」の世紀である19世紀を過ぎた頃からである。

もう一つの非現実性は指摘するまでもないが、いくら現実的に描いたとしても、対象は現実的なものではないということである。あくまでも「自然に見せている」イメージ。スクリーン上のアンリアリティ。指摘するまでもないと書いたが、視覚の魔力がいかに強烈で私たちの認識の在り方を全面的に変容させうるものであることは、ネット文化に生きる私たちの世代なら容易に想像できるだろう。二度の大きな戦争が大量の死をもたらしてはじめて、ヨーロッパではこの錯視、その奥底に潜む強欲と暴力が問題視された。スクリーンを凝視する一切の余裕がなくなったのである、あるいはスクリーンが物理的に破られてしまった。現実主義の非現実性とそれに付随するイデオロギーの諸問題を理性的に「再」認識するのにおよそ300年間もかかったのだった。

 

 

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ジャスパー・ジョーンズ『旗』(1954-1955年)

 

アナモルフォーズ バルトルシャイティス著作集(2)

アナモルフォーズ バルトルシャイティス著作集(2)

 

 

“象徴(シンボル)形式”としての遠近法 (ちくま学芸文庫)

“象徴(シンボル)形式”としての遠近法 (ちくま学芸文庫)

 

 

 

要は「あくまでバーチャルリアリティである」という反省的な意識を忘れて、<絵画や文学などの作品=自然>、現実的な作品はあらゆるものをピュア(Pure←Puritan)に表象できるものと誤解するよう/されるようにになった時点で、両者は一層混同されるようになった。

理想的なかたちをした現実的に見える存在は、現実的であり即ち自然なもので、それ故理想的な美しさを<先天的に>有する、というややこしい、意図的なミスリーディングがあらゆる手法で、媒体で行われた。

 

近代におけるリアリティの問題を、文学を対象に論じたワイリー・サイファーの『文学のテクノロジー』は、私が棺桶に入れたい本ベスト10に入る。射程の広さに舌を巻いた。奇跡的復刊を遂げた同著をこの際是非読んで欲しい。偶然、サルトルの『文学とは何か』を併読したのですが、共通の話題が多く、理解が捗る。

 

 

文学とテクノロジー (1972年) (研究社叢書)

文学とテクノロジー (1972年) (研究社叢書)

 

 

文学とは何か

文学とは何か

 

 

 

 

 

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2.   現実を論じるということ、ファッションのリアリズム

割と真面目にここまで書いたつもりだが、要はどんな文脈で使用するのであれ<リアル>という定義が曖昧なものをポンと差し出すことを避けたいのです。特にファッションに関しては。安易にリアリティを連発するような語り口がどこまでもうさんくさい、無責任な妄想に聞こえてしまう。「そういうリテラシーで構わない」という幼稚な開き直りがそろそろ許されない文化的状況に突入して欲しい。

 

さてようやくファッションのリアルについて考察を進めていくことが出来そうだ。これまでこの主題がどう扱かわれてきたかを簡潔に振り返るとファッションにおけるリアリティの問題は主に<着用者の問題>として扱われてきたのだった。

 

ファッションはアイデンティティの模索のツールというのがその代表的な論旨である。上の小見出しもおそらくこのことについて言及したいのだろう。着用者が存在しない衣服を起点にしては議論が進まないことから、身体論やジェンダー論もまた着用者に議論の重要性があることがわかる。「衣服がどのようなものであるか」は一旦棚上げされ、衣服がもたらすイメージが身体やジェンダーに、ときには権力や経済にどのように影響したのかを明らかにしてゆく。

それに比べると、衣服を対象としてそれ自体の現実についてはあまり論じられていないような気がする。もちろん何がうまれた、どういう経路からこれが流行したなどの情報、つまり衣服の系譜を記した伝統的な服装史は随分前から存在する。それ自体は大変価値のある学問ではあるが、何故かリアリティを感じられず、頭に入ってこない(授業でよく寝てしまっていた)。

その原因はふたつある。ひとつは特徴的な衣服の外見の記述がほとんどだからだ。たとえばゴシック時代のエナンという帽子の外見的特徴(絵画を見たら記述できそうなこと)はどんな服飾史の著作でも触れられるが、その内部構造やディティールが明らかにされることはほとんどない。そういう構造が前の時代の帽子の構造と比較すると、どこが変化して、その結果可視的なこの部分にはこういう変化が起きた、というような内容はほとんど説明されない。飾り付けるという行為が「女性的」なら、服飾史のエクリチュールもまた未だに「女性的」なのである。

もう一つの原因は、記述における逆説。今私たちが立ち会おうとしている諸問題であり、服飾史に限った問題ではないのだが、実証性(普遍的なリアリティ)を確保するために、系譜が整然と記述されるが、そのために固有のかたちが当時持ったはずのかたちの概念、意味、価値(当時のリアリティ)への言及はあまりなされない。何故ならそれは絶えず、同時多発的に揺れ動いていたからだ。

 

それにしても服装史において、当時それを作った人、或いは着た人のナマの声がどうしてこんなに日本語で残されていないのだろうか。国内外の著者による服飾史の本を数冊しか読んだことがないが、時代区分に差はあれ、言及しているものとその説明はほとんど同一であった。大体「元ネタ」は一緒なところを見ると、石津謙介による<アイビー受容>のような「手抜き」をしているのではないかと当時相当疑ったほどだ。これらは大昔の海外のファッション雑誌や業界新聞を読めば事足りるわけだが、素人が簡単にアクセスできるものでもない。翻訳も歴史家や批評家の立派な事業のひとつであろう。

 

 

 

 

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衣服の現実は何よりまず質量を伴う「ものである」と言える。可視的で可触的なものだ。

現状、聖書とハイテク技術を応用した衣服は数少ない例外だ。

 

chloma 2014-15 A/W collection "Blue Screen of Death"

 

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「質量を伴うあらゆるもの」が衣服ではない。当然だ。「もの」を古代ギリシアの哲学用語にならって徳(アレテー)によって分類する。

私が衣服と呼ぶものは、まず「理性を持った人間によって作られた人間のためのもの」である。人間の体毛、皮膚や動物の毛皮が比喩として「自然の衣服」と呼ばれることがしばしばあるが、そういうものは衣服と看做さない。その徳、つまり根本的で現実的な用途(機能)は「人間がよりよく着用できること」である。素材、色、そして立体性からなる有徳のそれを衣服と呼ぶ。「よりよく着用できること」の含意は身体保護や着用感、耐久性など、衣服から文化的な記号性を抜き取ったもの。実際、古代ギリシアにおいて必要以上に着飾ることはいろんな哲人たちがあちこちで否定している。女々しい、オカマ野郎だとかメンヘラだとか、散々な言いようである(おまいう状態)。

即物的に衣服の現実を上のように一旦定義づけた。そうすると、着用される人間の身体が前提条件として浮上してくる。少し乱暴だが、次のような仮定に基づいて考察を進める。絵画作品に描かれる、先立つ世界を自然なものとして仮定するのと同様に、衣服に先立って存在する身体という環境を自然なものとしてもし置き換えてよいのならば、身体が自然に見えるような衣服を目指す態度を衣服における自然主義と呼べるだろう。

衣服における自然主義は「人間の身体を自然に見せる衣服を作ること」。その造形性に限定して定義すると、「衣服が身体の表面にできるだけ沿っていること」を目指す。自然な(生来な)身体をなぞる衣服は、すなわち認識論的な現実(的な身体のイメージ)である。機能性を向上させるディテール以外の人工的な構造、装飾はすべて非自然的である。 

観念史と絵画史を援用しながら、衣服の自然主義をひとまず定義した。この定義の正確性があやういことは承知だが、そこは是非両目を瞑って見逃して欲しい。何故ならその先のとある問題意識によってこの文章を書いているからである。

 

衣服の自然主義、現実主義を上のようなものとして理解した。それでは具体的に衣服の自然主義を表現するテクニックとは一体何なのか。それはテーラリングtailoringである。

ところで私はテーラーではないし、テーラーで仕立てたこともないので、この先の内容の正当性、アプローチに自信がほとんどない。偉そうに上のように書いたがどこまで衣服の現実を書ききれるかわからない。

だが、この語彙を敢えて選んだのには明確な理由がある。先人たちの知恵を拝借しつつ、これについて言及していこう。

 

 

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3.  テーラリングTailoringというリアリズム的手法

身体がトイレットペーパーの芯のようなかたちだったなら貫頭衣で事足りるが、そういう衣服を着用する機会は日常的にほとんどない。私たちが日常的に着用する衣服は人間の身体と呼応した構造を持っている。身体中にある凹凸、可動部、まさに可動中の身体に絶妙に寄り添うようにカットされ、ダーツが取られ、デザインされている。

「テーラリングtailoring」と普通聞くと、「仕立て」や「オーダーメイドの高級紳士服」といった少しお堅いイメージがなんとなく浮かんでくるが、テーラリングは身体にフィットするように絶妙なパターンメイキングで以って、不均一で動的な身体に衣服を沿わせることが本来の意味だろう。

「単に衣服を作る」という意味の言葉はテーラーリング以外にもいくつかあるが、ここではこの言葉をどうしても使いたい。クードルcoudreは素朴すぎる。日本で言う洋裁、「家庭で楽しいミシン縫い」くらいなニュアンスだと思う。クチュリエールcouturierはオートクチュールを途端に想像させることが望ましくない。そのせいで、この語彙は超絶技巧の手芸から生まれる、レースやビジュー飾りやコサージュなどの表面を飾りつけるという<人工的な要素>を重要な評価の基準にしているもの、というイメージがすでに付加されてしまっているからである。オート(haute=high)という言葉通り、衣服以外のイデオロギーの問題を考慮に入れなければいけないことが目下の議論を複雑にしてしまうだろう。世界基準ではかたちを作る作業全般をモデリングmodelingと呼ぶのでそれを使用することも考えたが、指示内容が広すぎること、またいくらか商業的な、生産管理的な響きを感じてしまうので同様に使用することは控えようと思った。

 

何より語源フェチとしては、「テーラー」の語源に注目しないわけにはいかない。というのも、Tailorの語源はde-tail(細部)と同じ、'to cut'である。フランス語でも同様に 身体の、衣服の細部(détail)を扱う人間、仕立屋のことをタイユールtailleurと呼ぶ。身体という有機的な統一体を細部という記号に分割、変換、編集することにより、身体を自然な(理想的な)イメージに現実的(人為的)に再構成することの謂がテーラリングなのである。これがテーラリングという言葉を選択した決定的な理由です。 

 

この文章を書くにあたって、とあるステキなテーラー様の文章を発見したので、勝手ながらこっそり引用させて頂く。私なんかが書く文章と比較にならないくらい説得力がある(この方の博学っぷりには膝を打つ。またこの明確な輪郭線を持った文体がいかにもテーラーという感じがする)。

 

注文はお客様の要請、体型やデザインの要請が前提になっています。この要請の実現に直接関係するのは、実は縫製でなく、その前段階である「裁断」です。裁断という言葉からは「布を切る」という意味しか連想できませんが、実際には裁断に必要なことの全てを含む広い意味で使います。寸法取り(体型把握)やデザイニング、チャコ引きや型紙起こしも含みます。つまり、縫う以外の全ての行為を大まかに裁断と呼んでいるわけです。

 

裁断時、体型やデザインに応じて布に線を引いていきます。型紙起こしは布でなく紙の上に引くだけですから事情は同じです。チャコ引きも型紙起こしも、結局は同じことをしているわけですから、多くの同業者は「線を引く」と一括りで表現します。要は注文に応じた設計図作りです。

 

ただ、問題は「線が引けても服になるとは限らない」ところにあります。線は繋がっているにも関わらず、体型によっては服になりませんし、全く同じ線を引いているにもかかわらず、生地が変わればやっぱり服にならないことがあります。

そのため、裁断(デザイナ)と縫製が明確に分かれている場合に問題が起き易くなります。連携が悪かったりすると、縫製現場から「こんな線で縫えるかっ」という叫びが上がります。極端な場合、下手に線を引いたためにラインが完全に止まってしまい・・(以下略)

 

テーラリング(tailoring)とは何か : テーラーカスカベ

 

一般的には「縫うこと」が含まれていて、しかもそれが主要なもののような気がしていたが、仰られるに「まず線を引く」ということ。鋏で線を入れること(下手に線を引いたために止まったラインとは一体何の「ライン」なのだろう)。

以下の内容からもテーラーにとって線がいかに重要であるか、それが衣服の原点であるかがよく伝わってくる。こういう途方もない線の操作を経た後、更に膨大な時間をかけてその線の上をなぞるように手縫いされることを想像すると、この細部主義がいい意味で異様なものに思われてくる。

 

連続する体 : テーラーカスカベ

 

 

 そういえば「初」という漢字は「昔布(衣)が高価だった時代に刀を入れることの重要性を示している」ことを『ファッションは魔法』のトークイベントで教えてもらった。

 

 

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ざっとこのようなアテをつけたところで、テーラードの代表的なアイテム、スーツの歴史の画像を見ながらファッション批評書も繙いてみる。

 

スーツの歴史【背広・紳士服・ジェントルマン・イギリス】 - NAVER まとめ

 
 
中野香織による一世一代の大仕事、アン・ホランダー著、中野訳『性とスーツ』は、モダンの定義が不正確、とうか多分戦略的に非常識な定義で、また私と同じくらい無理矢理気味にセクシャリティの問題を設定しているため、全体の論旨が少々理解しづらい。
そして冒頭50頁ほどは客観的事実がほとんど示されていないので「何を私は今読んでいるのかしら」という疑問が沸き続けるという、極めてファッション的な体験を提供してくれるメタ-ファッション批評書になっているが、第三章のスーツに関する検証と批判は即物的でかつモダニティとジェンダーの問題も射程に捉えたとても質の高い内容になっている。読むなら三部から最後まで読んで一部へ戻るのがよいかと思う。
 
性とスーツ―現代衣服が形づくられるまで

性とスーツ―現代衣服が形づくられるまで

 

  

 

衣服を着た姿に関しても、男女とも、新古典の建築に匹敵する単純化を迫られることになった。身体の基本的な構造は完全に古典的な形式において再発見された。古代の裸体彫刻に完成されているような明瞭な線を描く四肢、頭部、筋肉の体系、均整の取れた腹部と臀部と胸部の体系こそがもっとも正しい肉体の姿であり、うそ偽りのない自然の解剖学的人体構造であり、プラトン的な理想形として取り入れられた。衣服はこれまでかくも長くにわたって現実の肉体をほとんど無視してきたがここにきてはじめて、あらたえて発見された「自然な」解剖学的事実を表現するようになったのである。(同書、120頁)
 
線により単純化され、整った身体が、プラトンの理想的身体に何故か接続されるという近代的ロジックに注目したい。
 

この衣服は自然の美徳に基づいた個としての精神の強さ、小細工をしない純粋な美のなかに花咲く高潔さの象徴となったばかりでなく、それを着るジェントルマンを率直な近代的意見と自然で気取りのない感情の持ち主に見せた。この衣服を着る男が率直に見えたのは、縫い目が外に見え、無地で折り目もはっきりとわかるこの新しい衣服の作りのためである。理性的に見えたのは、完璧な裁断、縫合、均衡による仕上がりゆえである(中略)。この衣服を着たときにいっそう「ナチュラル」になるという印象さえ与えたのである。(同128-129頁)

 

使用される形容詞が悉くプロテスタントの語彙である。衣服が精神と身体の架け橋になっている。それらを支えるのはやはり線。新古典主義の明暗対比(キアロスクーロ)と同様、スーツの無彩色化も線的な表現を強調するためという指摘。

 

とにかく渋い仕上がりと明確な線こそが肝要だった。自然をありのままに再現するための新古典主義にしたがえば、技巧的で多色使いの光沢仕上げよりも、完璧な線による構成のほうが、より真実で美しく、それゆえ立派な作品ということになるのである。芸術家にとっても仕立て屋にとっても理論は同じである。(同136頁)
 
そして、理想のイメージを現実化したものという衣服の現実主義の詐術についても言及されている。
 
自然なヒロイズムを表現するべく胸と方とに少しボリュームを出すように巧妙にデザインされており、「完全なフィット」という理念は、あつらえの仕立ての服においてさえすでに虚構の話になっていたのだ。(同149頁)
 
 NHKでも取り上げられるなど話題のテーラー、鈴木健次郎さんのインタビューより抜粋。線から構成されるディティールの役目は「身体に沿う」ではなく「身体を包む」ことである。線、理想形、リアリズム。
 
縫いが良いかどうかではなく、身体と服の間に空気の層を作りながらフィットしていないとダメなのです。(中略)例えば、お腹が出ている人が既製品を選ぶと、お腹周りに合わせるので肩が広がってしまいますが、その部分を重点的にカバーします。他にも猫背の人や肩が落ちている人など、様々な体型の人がいますが、そういった本来良しとされない身体的ディテールを包む役目がテーラーなのです。
 

 

テーラー鈴木健次郎3/3--エレガントこそテーラーの勝利【INTERVIEW】 | ファッショントレンドニュース|FASHION HEADLINE

 

 

テーラーリングとは、線という記号を理性的に操作することである(de-sign)。そうして作られたテーラードな衣服は、身体を自然に包み、その人間を自然で高潔な現実存在のように見せる。

理想の身体像について2冊、衣服と身体の関係論を1冊、医学のビジュアルを対象に身体の分割と再構成の様を見せるという変わり種1冊をそれぞれ参照。

 

ザ・ヌード (ちくま学芸文庫)

ザ・ヌード (ちくま学芸文庫)

 

 

肉体の文化史―体構造と宿命 (りぶらりあ選書)

肉体の文化史―体構造と宿命 (りぶらりあ選書)

 

 

みっともない人体

みっともない人体

 

 

ボディ・クリティシズム―啓蒙時代のアートと医学における見えざるもののイメージ化

ボディ・クリティシズム―啓蒙時代のアートと医学における見えざるもののイメージ化

 

 

 

 

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3'   テーラーとダンディ、マナリズム、コンテクスチュアリティ

自然ではないものを自然に見せる作り手がテーラーであり、その観念の体現者がダンディである。ネクタイを結ぶのに5時間もかけたとかいう類の逸話は広く知られている。

ダンディズムの「技巧を自然に見せる」というスタイルがこの頃流行りのノームコアの直系の父だという指摘をどこかで読んだが、この衣服のガチガチなマナリズムMannerismの出発地点は、偶然なのか何なのか、絵画における自然主義の萌芽が見られる16世紀である。

バルタザーレ・カステリオーネの『廷臣論』は宮廷における理想的な作法、服装、歩き方、振る舞いから言葉遣いに至までを縷々説いた宮廷百科事典の体。要はできるだけ目立たずにうまくやってのけろ、ということらしい。

ところで、ここで記述されている内容がテーラーリングという細部主義がもてはやされた文化圏と根本的な思想、アプローチの方法がそう変わらないというところが興味深い。そこは極めて男性的、閉鎖的、イデオロギー的、主知主義的、暗喩的なミクロな世界である。

 

 

ダンディズムの系譜―男が憧れた男たち (新潮選書)

ダンディズムの系譜―男が憧れた男たち (新潮選書)

 

 

男たちへの遺言 ダンディズムの方法60

男たちへの遺言 ダンディズムの方法60

 

 

カスティリオーネ 宮廷人 (東海大学古典叢書)

カスティリオーネ 宮廷人 (東海大学古典叢書)

 

 

 

ヴィクトリア朝よろしく、この回りくどい厳格なミクロ主義、それ故一層悪質な男性中心主義的文化、巧妙な権力のグリッド設定を丸ごと批判したナオミ・ショアーの名著は未邦訳。ファッションに援用すると面白い考察が得られそうとかつて思ったが、未だに邦訳がないのは惜しい。この著作が参考文献に挙げられているものを見た事がない。

 

Reading in Detail: Aesthetics and the Feminine

Reading in Detail: Aesthetics and the Feminine

 

 

 

「微細な差異」に現代の私たちも固執しているらしいが、これまで見てきたような現実主義およびテーラリングやブルジョワ文化とは全く違った理由から「そうせざるをえなくなっている」のが実情だろう。

1970年代には文学の世界において<文学の枯渇>あるいは<意味の枯渇>が叫ばれたが、衣服に関しても同様で、意味も形式もほとんど使い尽くしてしまった感がある。具体的な縫製方法は前の世紀と比較して発展したのだろうか。

伝統的な切り口からでは最早新しいものを生み出すことはできない、という苦悶の身振りは、ほとんど同時期のファッションにも見出すことができる。わかりやすいのがYves Saint Laurentで、極めてモダンな感性の持ち主であった彼は、作品からアウラを切り売りして(新しいシステム)、性やナショナリティーといった固有性をかたちから切り離して(引用とハイブリッドという新しい編集技術、それをストリートの方向に振ったのがJean-Paul Gaultier)、アートの威を借りた(インターディスプナリティ、あるいはコンセプチュアルなファッション)。

 

サンローランによるファッションは、所謂ハイファッション、エレガントなカテゴリーに属していたと思うが、そのヒエラルキー自体への異議申し立てがCOMME des GARÇONSやMartin Margieraらによって行われたのはここで触れるまでもないと思う。Hedi Slimaneはきっとこの辺の一連の流れを理解した上で、「もうズタズタになったコンテクストを敢えて利用し続ける」という一時代を築いたブランドと男にしかできない荒業を敢えて繰り出しているのだと思う。そういう意味でラディカルに「ムッシュー・サンローラン」らしいと思う、たとえ衣服のデザインがかつてのそれとかけ離れたものであっても。

 

 

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Helmut Newtonによる傑作「LE SMORKING」(1975年)

 

 

ファッションニュースかどこかで、川久保玲は2014年春夏コレクションは過去から「一切」自由になろうとしたこと、その労力の凄まじさについてインタビュアーに答えていたが、ファッションのゼロ度(意味と意味体系の消滅)に到達した後に、このアプローチにどれほど新しさという価値はあるのだろうか。業界人の戸惑いがかすかに滲んでいるようなコレクション評が散見されたが、それは現代的な問題、つまりコンテクスチュアリティという繊細な問題がごっそり抜け落ちている、あるいは若干懐古的なアプローチであるからだろう。

 

http://www.style.com/fashionshows/review/S2014RTW-CMMEGRNS/

 

 

  

 

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 3".  象徴と類推

ファッションは新しいものに価値を置くひとつのゲームであったが、新しいものは今後生まれないかもしれない、というなかなか絶望的な状況下に現在ある。ファッションの伝統に縋ることができない日本のクリエイションは過渡期だ。

 

現在の、いやそもそもモードというものは、コンテクスチュアリティへの偏執は新しさをそれでも生み出す最後の砦だと思う。コンテクスト、それによる細分化は微妙だが決定的な差異を保証するからだ。私の恩師の言葉を借りると、「あ、虫!」という子供より、「あ、ゴキブリ!」という子供より、「(恩師の愛娘)アカチャバネゴキブリィッ!!」と言える人間が虫界ではすげーっていう話。部外者から見たら「全部虫やん、いらんやん」っていう主知主義的な傾向の世界。

ファッションの伝統的な領域には根本的な革新の余地がほとんど残されていないこと、ものに固有の意味はなく、あくまで環境や鑑賞者や着用者の関係性の中で意味が生まれることが明らかになった今、新しい仕切りを作って、組み合わせて、既存のものを「新しく見せる」こと、と「新しいものとして認識できること」が重要な価値判断の基準になるというのは自然の流れだと思う。これからファッションはどんどん知的に、クールに生産、消費されていくのだろうか。

 

コンテクスチュアルによって細分化されるということをミクロの視点から見返すと「コンテクストによって区切られた一つの要素は複数の意味を持ってはいけない」ということになる。ニューバランスアディダスであり、ナイキであり、ジミー・チューでもありコモンプロダクツであってはいけないことは容易に理解されるだろう。最早理解不可能である。些細ではあるが明確に他とは区別されていなければいけない、引かれた線の「幅の上」に絶対的な価値が宿る。

このミクロ志向な世界における表象の常套テクニックは象徴(シンボル)である。言葉とモノが一体一対応しているということだ(ファッション批評系でよく「表象」と「象徴」が併置されているのを見かけるが、これは不正確だと思う。表象はあくまで規則、象徴は規則の具体的運用である)。低次元の<もの自体>からより高次元の意味づけされたものを読み解くリテラシーが必要になる。わかる人にしか本当の意味がわからない。

 

 個人的アポリアその2がまさにこれで、「言葉とモノの一体一対応を常時迫られる状況に、不安定で不条理な人間はどこまで耐えられるのか」、換言すると「人間は一対一対応の世界を維持できるのか」である。ダンディズムに代表される「様式美」が短期間で終焉を迎えることは、「ファッションは飽きやすい」とかいう小学生みたいな理由ではなく、もっと人間の認識の仕方に根本的に関係するような気がしている。

高度に抽象化されたものを二者択一するという状況でまともに生存を続けることができる人間はほとんどいないと思う。それこそニンジャとかコアな人間だけが成し遂げられるだろう。

 

 

私は頭悪いし、不純で、非自然的で、非理知的で、ぶさいくで忍耐強くないので、すぐ類推analogyに走ってしまう。一から十へというダイナミズム、というひとつのファンタスマゴリックな現実。

延々とアナロジックに思考を進めていくと、ある瞬間私が私のものでなくなるように感じるときがある。誰かに書かされているように感じるときがある。 ところで、この何者かによって静かに掻き回されていることを理性的に知覚している状態こそ、陶酔、倒錯、つまり変身の醍醐味であり、ファッションの醍醐味でかつてあったものだろう。人間の身体(感覚)と(主に視覚による)認識に同時に過剰に介入できるという点は現在においてもファッションを他のメディアと分つ大きな特徴である。

コンテクスチュアリティの現代における重要性を考慮にいれながら、身体と認識の両面に強く刺激するような、あくまで造形的におもしろい衣服をこの先作っていきたい。

 

 

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4.   新しいフォルムの方法論、衣服の反自然主義と非自然主義

 (2)の終わりで私は「とある問題意識」に基づいてこの文章を書いていると言ったが、コンセプト(象徴体系)は意識しながらも、「もっと素朴に新しい<かたち>はこの先つくることができないのかな」という素朴な疑問の答えを探すために、まず衣服の現実主義としてのテーラリングというものを私なりに位置づけけてみたかったのである。結構大袈裟な文字量になってしまい、自分でびっくりしている。

 

この思考の枠組みは「もうひとつのヨーロッパ史」をぶち上げた碩学、エルンスト・ローベルト・クルティウスは『ヨーロッパ文学と中世ラテン』に依拠している。自然に表現する方法はせいぜい二つか三つしかなく、それらが定式化したのちは反自然的に表現することだけが許される、そしてその方法は無限である、ということを述べている。

 

 

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ピカソの素描(1934年)
素描にデフォルメを加えた素描にデフォルメを加えた下書きにデフォルメが加えられ完成されたものが次の素描の対象になる
 
ヨーロッパ文学とラテン中世

ヨーロッパ文学とラテン中世

 

 

 

繰り返しになるが 、テーラリングが衣服の自然主義的技巧であること、そしてクルティウスの命題のいずれもが正しいものだとしたら、テーラリングは「新しいかたち」を生み出すことは恐らくできない。

素晴らしいテーラリングによる衣服は「着用者にフィットしたもの」として認識されるが、よくフィットしているからといって「新しいもの」とは認識されない。それは完璧な均衡が取れた自然状態であり、自然状態は唯一無二、「新しい」という概念が入り込む余地はない。

おまけ程度にラペルの形やゴージラインや打ち合わせやボタンホールのかがり糸の色が当世風にデザインされるが、それはテーラリングの本質的な部分でない。

 

テーラリングによって引かれる線はいつでも身体との関係の中から選ばれている。身体の表面をそのままなぞる訳ではないが、その線と面を作り出す意識はいつでも塊としての身体との関係に収斂している。これまで追ってきた自然主義的で古典的なテーラリングによって生まれうる造形はほとんど完成したのではないだろうか。テーラリングがファッションの問題のときにあまり言及されないのは、専らこのほとんど完成を遂げた高度な工芸性によるのだろう。工芸は極めて専門的で自律した体系を持っていて、その発展のためには部外者を必要としない(ほどよい刺激としての新しい上っ面のモチーフを借用するため、また社会的価値を一定に高めておくための他者が時折必要とされる)。

 
 
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ここまでテーラリングというものを考察してきたが、その先にある「新しいかたち」はその片鱗さえ未だ浮かんで来ない。 そのヒントを掴むために、以上のような視点から現代的なファッションのいくつかを最後に眺めてみる。
 
 
衣服の反−自然主義の可能性を最も強く説得してくれるのは、サヴィルローをオリジンにもつALEXANDER McQUEENだった。
私はマックイーンの衣服は数着しか持っていないし、たとえばドレスの複雑で端正なディティールの具体的な処理の仕方やその職業的で特殊な呼び方のすべて知らない。だからあくまで私の推測であり、しかし確信であるのだが、ALEXANDER McQUEENの時に異端的でもあった圧倒的な造形美は、やはりテーラード、線を軸にしていたからだと思う。
 
 
私の一番好きな2006 FALL COLLECTIONより。
 

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肩から袖のなめらかな線が黒い背景に浮かび上がる。
ラペルの幅とフラップ幅とのバランスがステキ、傾斜がややあるダブル打ち合わせ、スクエアカットとの間に軽快な線のリズムが生まれている。
ウエストの絞りの量も抜群で動くと捩じれているようにも見える(細く見える)。
 
シフォンのフリルが重ね付けされたブラウスはそれ自体の装飾性もさることながら、そのコントラストによって極太のラペルのラインを明確に見せている(テクスチャーのキアロスクーロ)。
彼のレザーへの偏執は、独特のテクスチャー、そして衣服と重なることで分断線が生まれるからだったからではないだろうか。断面はまたエロスを喚起する。
 
 

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同様の表現。

 

 

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マックイーンお得意のマーメイドシルエット。

黒色のサテン?と白の刺繍のコントラスト。

柄、ウエストと袖周りの絶妙な刺繍の分量。

スタンドカラーとデコルテも「ああ、マックイーンステキ」。

 

 

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テーラーであるマックイーンのもう一方の側面、フェミニン、ファンシー。
こちらの一群はジャケットを中心とするルックとは対照的に、繊細な線を表現する。相互を強く印象づけ合う。
シフォン、オーガンジー、シルクジョーゼットなどの薄手の婦人服地を彼が使用する際のパターンはおおよそ3つに分けることができる。比較的オーソドックスなシルエットに超絶技巧の刺繍施す、異素材ドッキング+タックを細かく大量に重ねた変則的シルエット、ひとつのモチーフを拡大して、それの重複で身体をまるごと覆ってしまう。
刺繍や襞を執拗に重ねて、線を印象づけるというテクニックは、無彩色やペールトーン、アースカラーの素材に対して使用される傾向が多分ある。線へ鑑賞者の意識を集中させるためだと思われる。
 
 

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直線の重奏からなるチェックの上に刺繍を重ねる。
トゥとヒールのエッジが効いたライン。
 
改めて連続して彼の衣服を見ていると官能的な気分になる。
 
 
 
 
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テーラリングによって描かれる線は自然に古典的なイメージ(男らしさ、女らしさ)を象徴するものであったことがわかると、今度はそれを全く違う効果を発揮するために導入できないのだろうか、というひねた着眼が生まれてくるのは時間の問題。 「男らしくなく、かつ女らしくないもの」、つまり中性的なものを構築するために線はどう引かれるのだろうか。
 
モードへの興味があまりなくなり、在りし日のように事細かにコレクション動向をを追わなくなってしまったので、これはいい機会だと思い、J.W.Andersonのこれまでのコレクションをパラ見した。
 
2013FALL COLLECTIONより。
 

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「まじか」が率直な感想だった。着用者の性の置き換え以外、特にデザインされているポイントがわからなかった。
これ見て「フリル!騎士道復権!」とか書いちゃった服飾史家はまさかいなかったよなあ。真剣にコレクション評を探そうという気分になった。
 
 
2014SPRING COLLECTIONから。

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このシーズンが分岐点になっていたみたい。
股ぐりの深い、濃色かトップスと共地のテパードパンツが大半で、トップスで見せていく。
 
透け感のある素材(フェミニンなもの)は、襟あきや袖口はノーマルに、プレーンな素材(比較的マニッシュなもの)はデコルテや袖口、着丈をフェミニンにするという操作が伺われる。
素材は打ち込み本数が多く、ハリコシがあり、表面がプレーンなものが選ばれる傾向にある。カラーはモノトーン、ベージュ、ビビットトーンなど濃度が高い。恐らくこれらが線の強調、構築的な印象感に影響するのだと思う。
いつかのRAF SIMONSっぽい雰囲気。
 
 
2014FALL COLLECTIONより。

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デコルテとショルダーポイントの位置のいずれか、あるいはすべてがフェミニンなデザイン。
 

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シンプルなキャメルのコートもノッチ、Vライン、ショルダーポイント、身幅の分量感がレディースライク。
 
 
2015SPRINGより。

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1stルックは2014FALLと類似したシルエット。

ハリコシがない、土杢が甘いニット、カマイユの使用は多分はじめて?

 

 

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このあたりは前回と同じ考え方。

 

 

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珍しくリーンなシルエット。

このデザインと素材感ならリアルに着る人がいそうだけど。

クリースがもたらす明晰な効果がよくわかる。

 

 

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こちらも比較的ベーシックなデザインのジャケットとパンツのルック。

なだらかなショルダーライン、着丈短めのワンボタン、でもどこか違和感があるのはパンツのシルエットと落ち感、スリッポンのせいかな。

 
 
 
 
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同じく中性的なコレクションを発表して話題になったMIKIO SAKABEによる2014FALL COLLECTIONより。

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メンズのベーシックなシルエットとあきはそのままに、レディースライクな色、素材、モチーフを選択、上乗せしていく。

 

 

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レディースライクなアイテム、素材、モチーフの多用。

今回の極点だったと思う。アンダーソンの2013FALLと比較すると面白い。

 

 

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漢字をぐるぐる巻いた衣服。

アンダーソンは素材の質感を考慮にいれながら、首、肩という人間の主要な稼働域に対してデザインの足し引きを集中させていたが、MIKIO SAKABEは身体の固有のかたちとは無関係に、モチーフの自由なデフォルメを表現方法として選択した。

 

モチーフという集合的想像力が具体化したものによって性差を乗り越えようとしている、としたら私たちがこれまで見てきたテーラリングに基づく線的なアプローチとは全く異なる。アンダーソンは反自然主義。MIKIO SAKABEは非現実主義、だからどこかシュールに見えてしまうのだろう。多分それを折り込み済みの、スベらない提案だったとは思う。新しいかたちをつくるためのもうひとつのヒントなのかもしれない。

 

 

ミキオサカベ 2014-15年秋冬コレクション - ジェンダーを超えた先の、新しい融合 | ニュース - ファッションプレス

 

 

再び個人的な体験談になるが、ファッションデザイナーである友人ふたりがhatraで同じ型のアイテムを偶然オーダーしていたので、どこがよかったのか聞いたところ、ふたりとも「首の付け根から肩にかけてのパターン、フードの立体感が完璧で、自分では引けない。素材感もいい」とのことだった。母数が少ないので単なる偶然と一言で片付けることもできるけれど、なかなか強烈なインパクトだった。
 
 
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ファッションのリアルという問題からここに辿り着くとは思わなかった。文字量が多いから誤字脱字、誤情報があるかと思うけど許してください。
 
分割して投稿することも考えたが、ひ弱で虚弱な精神を鍛錬するために頑張ってみた。産みの苦しみ、を久しぶりに味わった気がする。
 
 
それにしても使用したタームや基本概念が学生時代からまったく更新されていないことに笑っちゃった。しばらくインプットの時間にあてよう。
 
 
 
 
2014.6.24  加筆修正