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about a manner

ちょっと何言ってるかよくわかりません

ファッション批評について

ファッション批評

随分大きな話題なので、ここだけ・今回だけで何か有意義な結論が生まるということはまずない。

一度現在の私がファッション批評について感じていることをできるだけ簡潔に整理しておきたいと思う。時にファッションに対する不満だったり、批評行為に対してだったり、ファッション批評に対してだったりしますが…(現状不満だから、こうやって文字に起こしていくわけで)。

 

 

(1)ファッション以外の研究分野の専門用語を援用し過ぎ?

デザイナーが社会的地位を獲得して、高級文化の仲間入りを一応果たしたのは19世紀半ば。ファッション批評の際にしばしば引用されるソースティン・ヴェブレンの『有閑階級の理論』の刊行は1899年。モード論が人文科学界を席巻したのは20世紀半ば。国内に関してはようやく1980年を過ぎたあたりから。

 

ファッションというもの自体歴史が浅く、批評も言わずもがな。またファッションには他者、社会、資本主義…と衣服そのものではないが、受容(あるいは再生産)の観点から、と考慮にいれるべき要素が数多くある。つまり<ファッション>を定義することがまず難しい。

それ故、穴埋め的にしばしば「外」の専攻研究の成果が持ち込まれるというケースが多い。

或は、上に挙げたヴェブレンの論文のように有閑階級の構造を明るみに出す例のひとつとして副次的にファッション(モード)が取り扱われているケース(ヴェブレンはモード現象自体には否定的)。

 

だが、美術作品を考察、論じることで美術批評が生まれたように、もう少し衣服それ自体に目を向けるべきではないのか?と素朴に思うのです。

「強度のある批評がまだ存在していない現在、様々な視座からまず語られるべき」という主張は宜なるや。一方で内向的な推論を重ねることで、まだ名付けられていない「概念」や「態度」にばったりと遭遇することもあるのではないか。

難解な外部の語彙を拝借する際の煩雑な手続きに気を取られていては本末転倒だろう。ファッション界のヴァザーリの誕生を願っている。

 

 

(2)ファッションデザイナーはファッション批評の価値を感じていない

人が「価値を感じる」とは一体どういうことなのか?価値はどのようにして生まれるのか?価値を巡る諸問題は保留。

 

ファッションデザイナーはファッション批評の価値を感じていない。これは私の友人、知人のデザイナーやパタンナーと会話する中で感じた、あくまでも個人的経験に基づく一意見。

というか、まず<ファッション批評>の存在すら知らない。何故知られていないのか。その理由のひとつはファッション批評が比較的アカデミックな場やメディアを中心になされていることにあるだろう。

 

例外、異論はあるだろうが、日本のファッション教育の中心は今でも服飾専門学校であると思う。ところがそこにはファッションを批評したり、それを扱ったりする講義は存在しない。

私が在籍した学校には「服装史」の講義はあったが、それは極めて素朴な歴史だった。通史的かつ肯定的に衣服の形態や男女間の服装、それを取り巻く社会の変化が記述され、権力は揺るがない。そんな内容だった。

 

ファッション批評の担い手は四年制大学の教授に多く、そこで議論が重ねられることになる。オープンなゼミ、トークショーなどがたとえば早稲田大学の文化構想学部でもしばしば行われているが、専門学校生時代、私の友人達でそこに参加したという人を知らない。

やっていたこと自体、知られていなかった気がする。それほど接点がない。

或は、知っていたが課題制作に追われていて時間がなかったから参加しなかったのかもしれない。その場合、ファッション批評にその程度の価値しか感じていないとも言える。悲しい。

 

 

ファッション批評誌『Vanitas』も、その取り扱い先は蔦屋代官山店など、書店が中心のよう。書籍なので当たり前かもしれませんが、第一刊で作り手と書き手と消費者をつなぐ役割を果たしたい、作り手の声を拾い、広げてゆくお手伝いをしたいと語っていた編集者の意図を考えるともっと色々な場所にあってもいいのにな、とも思う(東京のミキリハッシン、名古屋のfro・nowhere、豊橋のanalogにて発見した)。

 

 

(3)批評用語が難解すぎる(理想とする読み手のリテラシーとの乖離) 

対象a><視線><劇場空間>などの哲学、美術批評、表象研究に特有のタームがファッションに援用され、語られることが多い現在のファッション批評だが、高校→専門学校に進学し、かつそこで専ら洋裁技術を学んでいる人間にとってはまるで異邦の言葉。

 

『fashionista vol.1』の冒頭インタビューでANREALAGEのデザイナー、森永邦彦は作品についてのキャプションと作品のバランスに常に気を使っていることを語った上で、ファッション批評が「批評のための批評」に陥らないように喚起している。

往々にして、人は自分で全く理解できなければ、それを読む気は起きない。読まなければ当然それについての理解は進まず、理解できなければその先の価値を絶対に感じない。

 

一般的に考えると、ある語彙を援用するということは、その語彙の使用に客観的な必然性がある(と、その著者は考えている)からである。理解を広め、価値を広めようとすることと難解な語彙を使用することの両立は極めて難しい。

 

 

(4)作品と批評のズレはネガティヴなのか?

ある作品から生まれる意見や感想は様々。国、時代が異なれば、その違いは更に大きいものとなる。美術や文学批評の世界では、この解釈多様性は「作品に厚みがある」などと指摘され(時代や場所を問わず、色々な人々が関心を持ってしまうような、問題を提起をすることができているということ)、しばしば肯定的に捉えられている。

 

ところが、ファッションのメジャーな領域において、この「ズレ」はどちらかと言えば歓迎されていないように見える。

ミクロな部分で言えば、意図にそぐわない情報で一方的に上書きされるというものは気持ち悪い、という生理的拒否反応。これは批評の土壌がそもそも存在しないことが原因で、鶏が先か卵が先か、といった微妙な問題。

マクロな、ビジネス的な部分で言えば、既存のファッション(業界、産業)がブランド性、固有性に重きを置いて成長してきたため、ズレは受け入れがたいものなのだ。コピーを喜ぶCHANELはピラミッドの頂点だからこその発想、余裕の態度。エミネムはあかん。

 

現在のファッションを取り巻く環境に限って言えば、

  • 殆どの意味内容が先攻する衣服により表現された(カジュアル、夏、淡い恋等)
  • 技術発展によって、製造が簡易化&差異が小さくなった

ために、ブランドアイデンティティはこれまで以上に、名前あるいはその作者のテイストや意図、コンセプト、そしてアプローチに強く求められているように見える。

 

 

ズレに関する問題をもう一つ。

今昔問わず芸術批評や文学批評は、その担い手自身がしばしば作品制作も同時に行っている。(私の趣味が露呈してしまいますが、たとえばダヴィンチやヴァザーリ、ポー、ブルトン三島由紀夫など)。一方でほどんどのファッション批評家は「書く」専門。

 

批評家には批評家の領分があるし、その視座からでしか見つからないものも間違いなく存在する。 だが、あくまで私の一つの感想だが、実際に製作したことのある人間とそうでない人間の着眼点は明らかに違う。ファッションの完成地点の想定がそもそも異なるというか。

 

うまく説明できないが、そういう温度差があるので、作り手側は現状批評家による書き換えに対して妥当性を感じにくいのではないか。時に傲慢に見えるのではないか。

そういうディスアドバンテージの中で、それでもファッションを批評するには、持続的な戦略性が必要とされる。


 

 

2015.5.6 加筆修正

2016.6.27 加筆修正